2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

 
第6回講義 (200811月18)
 
<学生からの質問>
私は、講義の中で口頭で「アプリオリで偶然的な言明」の例として、
「オレンジは、オレンジ色である」
を挙げました。これを説明するとこうなります。オレンジの色をオレンジ色と定義しました。これによって「オレンジ色」はある色についての固定指示子となり、あらゆる可能世界で同じ色を指します。しかし、オレンジは、現実世界ではオレンジ色ですが、他の世界では、それが「緑」(同じく固定指示子)であることも可能です。したがって、「オレンジはオレンジ色である」はアプリオリに真であるが、偶然的であることになります。
 
これに対して、原田君からの質問はこうでした。
より正確には、「オレンジの色は、オレンジ色である」というべきではないでしょうか。
このとき、「オレンジの色」が指示する対象と、「オレンジ色」が指示する対象が同一であることを表現している同一性命題であることになります。
 
これに対する私の返答したかったことは、こうです。
「オレンジは、オレンジ色である」
この言明は、「・・・は、オレンジ色である」という述語をもち、その述語の中の「オレンジ色」は名詞ではなくて、形容詞です。この形容詞は、ある性質の固定指示子として用いられている、という理解です。(これについては、来週、検討します。)
 
 
§7 クリプキの議論によるクワイン批判
 
クワインは、「分析的に真である言明」を次の二種類に分けた。
「論理的に真である言明」:例「結婚していない男は、だれも結婚していない」
「同義語(synonym)を代入することによって、論理的真理に変えることができる言明」例「独身男はだれも結婚していない」
 
クリプキの議論は、この後者についての再検討を我々に要請している。
クワインが言うように、次の言明を論理的に真である言明だとしよう。
(1)「結婚していない男は、誰も結婚していない」
次に(2)の同義性をみとめて、代入によって(3)を得ることができる。
(2)「「独身男」と「結婚していない男」は同義である」
  「あるものが独身男であるならばそのときに限り、それは結婚していない男である」
(3)「独身男は、誰も結婚していない」
この(3)は、クワインが言うように分析的に真な言明であるといえるだろう。クリプキは、「分析的」を「アプリオリで必然的」と定義したが、この言明については、クリプキもおそらく、アプリオリで必然的、つまり分析的であるというだろう。
 
■しかしこれと同じような変形によって、論理的に真なる言明から分析的でない言明がつくられるケースが存在することが、先週のクリプキの議論からわかる。
(4)「エベレストはエベレストである」
(5)「エベレスト」と「ゴーリサンカー」は同義語である。
(6)「ゴーリサンカーはエベレストである」
クリプキによれば、この(6)は、アポステリオリで必然的な言明であって、分析的言明ではない。
ここで重要なのは、(5)の同義性は、定義によって直接に与えられているのではない、ということである。もし「「エベレスト」と「ゴーリサンカー」は同義である(同一対象を指示する)」というように定義されるのだとすると、この定義を与えた者やそれを学習した者にとっては、(6)「エベレストはゴーリサンカーである」はアプリオリに知られることになる。そして(6)はアプリオリで必然的な言明であることになってしまうだろう。(先の(3)「独身男は結婚していない男である」は、まさにそのようなものであった。つまり(2)の同義性は定義によって直接に与えられたのである。)
(5)の同義性は、定義によって間接的に与えられたものである。クリプキが、次の区別を指摘していたことを思い出そう。
「より重要なことは、「これが指示を固定する「定義」同義性を与える「定義」との間の区別を具体的に示しているということである。」65
「エベレスト」という語は、その指示対象を固定する「定義」として、与えられたのである。「ゴーリサンカー」という語の定義も、同様である。したがって、この二つの固有名が同じ対象を指示することは、定義によって直接に与えられているのではない。
 
■もう一つ別の例を考えてみよう。次の(7)は論理的に真な言明である。
(7)「1メートルは1メートルである」
これに次の(8)の同義性にもとづいて、(9)が得られる。
(8)「1メートル」は「メートル原器Sの長さ」と同義である。
(9)「1メートルは、メートル原器Sの長さである」
クリプキによると、この(9)はアプリオリで偶然的であって、分析的ではない。
 
なぜ、こうなるのだろうか。ここでは、うまく答えられないが、とりあえず言えることは次のようなことである。(3)の事例と異なる点は、まず、(8)の同義性の意味の違いである。クリプキによれば、(8)の同義性の定義は、(9)の言明で与えられる。クリプキによれば、(9)は、「指示を固定する定義」であって、「同義性を与える定義」ではない。
 
■次にもう一つの例を考えてみよう
  (10)「心臓をもつ動物は心臓をもつ動物である」
  (11)「心臓をもつ動物」は「腎臓をもつ動物」と同義である。
  (12)「心臓をもつ動物は、腎臓をもつ動物である」
この(12)をクワインは、偶然的な言明だとのべていた。これは、動物についての経験的な認識であり、アポステリオリで偶然的な言明であると思われる。このような結果になるのは、(11)の同義性が偶然的な事柄であり、アポステリオリに知られることであるということにもとづくといえそうである。
 
■トートロジーの言明に、同義語を代入した結果、次の4種類の言明が得られた。
アプリオリで必然的な言明(3)
アポステリオリで必然的な言明(6)
アプリオリで偶然的な言明(9)
アポステリオリで偶然的な言明(12)
となった。この違いはどうして生じたのだろうか。
 
■四つの同義性の違いを吟味してみよう。
(この後の議論はクリプキの議論に触発された議論であって、彼の主張ではない。)
(2)「独身男」と「結婚していない男」は同義である
(5)「エベレスト」と「ゴーリサンカー」は同義語である。
(8)「1メートル」は「メートル原器Sの長さ」と同義である。
  (11)「心臓をもつ動物」は「腎臓をもつ動物」と同義である。
 
(2)の同義性は、言葉の意味に基づくので、アプリオリであり、これらの言葉の意味が変わらない限り必然的である。(2)も(3)もアプリオリで必然的である。
(5)の同義性も、(6)の言明と同じく、アポステリオリで必然的である。
(8)の同義性は、定義に基づくのでアプリオリであり、メートル原器Sの長さが、1メートルではない世界が考えられるので、偶然的である。ゆえに(8)も(9)もアプリオリで偶然的である。
(11)の同義性は、(12)の言明と同じく、アポステリオリで偶然的である。
 
要するに、トートロジーに同義語を代入した結果が異なったのは、同義性の性格が異なったからである。
同義性とは、Sinnの同一性か、Bedeutungの同一性かのいずれかである。(Sinnが同一であるならば、Bedetungも同一である。より正確には、SinnBedeutungが共に同一であるか、(Sinnは異なるか、あるいはSinnがなくて)Bedeutungが同一であるか、のいずれかである。)
 
●二つの表現のSinnが同一である場合:この同一性は、アプリオリで必然的である。
「独身者」と「結婚していない男」のSinnBedeutungは同じ。
 
●二つの表現のBedeutungが同一である場合:表現が固定指示子であるか非固定指示子であるかによって、次の3通りのうちのいずれかになる。
@二つの固定指示子のBedeutungが同一:指示対象の同一性は必然的である。
  これには二つのケースがある。
(a)二つの固定指示子の関係が、略号ないし同義語として定義される場合:一致は必然的であり、アプリオリに知られる。
   「jpは日本である」
 (b)二つの固定指示子が異なる文脈で定義されている場合:一致は必然的であるが、 アポステリオリに知られる。  
「エベレストはゴーリサンカーである」
   「ヘスペラスは、フォスフォラスである」
 
A固定指示子と非固定指示子のBedeutungが同一:指示対象の同一性は偶然的である。
  これには二つのケースがある。
 (a)指示を固定する定義によって、この同一性が成立する場合。
(8)「1メートルは、時刻t0における棒Sの長さである」は、クリプキのケースでは「1メートル」の定義に基づいているので、アプリオリに知られる偶然的な言明である。
 (b)固定指示子の定義がすでに別の文脈で行われている場合。
「オバマはアメリカ合衆国の最初の黒人大統領である」
これは経験的で偶然的である。
(もし、後の世代の子ども達が、アメリカ合衆国の最初の黒人大統領としてオバマについて知ったならば、それは「オバマ」という固有名に指示を与える定義をならったことになるので、彼らにとって、上の言明は、アプリオリで偶然的である。)
 
B二つの非固定指示子のBedeutungが同一:指示対象の同一性は偶然的
  「オイディプスの母親」と「オイディプスの妻」は偶然に同一であった。
  「心臓をもつ動物」と「腎臓をもつ動物」の同一性は、生物学的な必然性を持つように思われる。
 
■課題:微妙なケース
「cc」=「立方センチメートル」
これらは、固定指示子である。しかし「立方センチメートル」には意味もあるのではないか。
「π」と「円周率」はともに固定指示子であるとクリプキはいう。しかも、
「π」は「円周率」の同義語として定義されている。
「円周率」は固有名ではないので、
 
 
§8 固有名と一般名についてのクリプキの見解
 

 

 

外延

内包

ミル

固有名

×

一般名

フレーゲ

ラッセル

固有名

一般名

クリプキ

固有名

×

一般名(一部?)

×

             
 
・ミル、フレーゲ、ラッセルとの対比
「ミルは、「牛」のような術語、確定記述、そして固有名をすべて名前だと見なす。彼は、「単称」名について、それらが確定記述の場合は内示的(connotative)だが固有名の場合は、非内示的である、という。他方でミルは、すべての「一般」名は内示的だと述べている。つまり、「人間」のような述語は、人間性の必要十分条件を与える一定の性質――理性、動物性、および一定の身体的特徴――の連言として定義される、というのである。フレーゲとラッセルに代表される現代論理学の伝統は、ミルは単称名については誤っていたが、一般名については正しかった、と主張しているようである。より最近の哲学もその先例に倣ってきたが、固有名と自然種名辞双方に関して、定義的性質という概念を性質の群という概念でしばしば置き換え、それぞれの個別的ケースではその群のうちのいくつかが満足されるだけでよい、と主張する点で違っている。」150
 
「私自身の見解は、ミルは「単称」名についてはおおかた正しいが、「一般」名についてはあやまっている、とみなす。おそらく、若干の「一般」名(「馬鹿な」「太った」「黄色い」)は性質を表している。だが、牛であることが、つまらない意味で性質とみなされる場合を除けば、「牛」や「虎」のような一般名は、重要な意味では性質を表してはいない。もちろん「牛」や「虎」は、ミルが考えたように、それらを定義するために辞書が取上げる諸性質の連言の省略形であるわけではない。一定の性質が牛あるいは虎について必然的だということを科学が経験的に発見できるかどうかは別の問題であり、私はそれに対しては肯定的に答える。」151
 
クリプキは、「若干の一般名」は性質を表すが、しかしその他の一般名は、性質を表すのではなく、固有名のように対象を指示するだけであると考える。
はたして、これで問題は生じないでしょうか。来週考えます。